釣れ然なるままに

釣りに勤しむアラサー妻子持ちのブログ。

死生観について その1

おはようございます。

連日の割とブラックな記事で申し訳ありません・・・前回の告知通り今回は死生観について書きたいと思います。なんでこの時間なのかと・・・これから釣りに行くからです。超早起き。

 

私の場合、初めて人の死に触れたのが小学校3年生の時。一番好きだった祖父の死でした。父方の祖父です。祖父もまたがんでした。すい臓がん。癌家系ってあるのか知りませんが祖父が膵臓、父が胆管と二人とも質の悪い癌で亡くなった。私はどうなるんでしょうかね。不安とかは今の所何もありません。当然健康には気を使ってます!

家庭菜園の無農薬野菜を食べ、魚を食べ、肉嫌いを克服し・・・あとはストレスと禁煙くらいですか。禁煙は医者に止められるという偉業を達成したのでどうしたものかと笑

普通医者が禁煙をやめなさいって言いますか?聞いた時思わず笑ってしまいましたよ。確かに精神的にストレスがかかります、精神疾患なのでよくないのもわかります。健康にもよくない、、、差し引いても禁煙しない方がいいんですか笑

健康的にも経済的にも禁煙したいんですけどね・・・長生きしたいし。

 

序章が長くなりました。人の死に触れる機会は滅多にあるものじゃないと思います。そうゆう仕事をしていれば話は別ですが。その後同じ年にひいばあちゃん、21歳の時に母方の祖父、2年前に母方の祖母、今年父。まさかの順番でした。父方の祖母は元気に暮らしています。それが酷でもあります。自分の子供が死ぬというのは耐え難いものでしょう。神の贈り物か父が亡くなってから祖母の認知症が悪化しました。たまに父が亡くなったことを忘れるようです。完全に忘れ去ることができないようで、ふと思い出した時に新鮮な記憶として蘇り泣いています。全て忘れられたら楽だろうかと考えさせられます。

 

死生観について考えたのは20歳前後。音楽にのめり込みひたすら泣ける曲を探していた時期がありました。そこで自分もそのような曲を作り、作詞をする際に死生観について真剣に考えたのが最初です。

 

そもそも死とはなんですか。

 

この世を去ること、生命活動が停止することなどなど

死んだらどうなるかなんてわかりません。死んで帰ってきた人はいませんから。霊的なお話はないものとして続けます。私はホラーが苦手なので

 

デスノートで死神が言ってましたが死んだ先にあるのは無だと思います。

根拠はないです。生まれる前の記憶ってありますか?前世の記憶とかスピリチュアルなものも除きます。

無だとして考えても死は怖いですか?

無というものを考えられるのは生きているからです。無は無音無香無光無風無感のようで違います。何もなければ何も感じず何も考えられない存在です。そこに達する過程は怖いと思います。でも一度無になれば何もないのです。

 

ちなみに私は宗教家ではありませんので。家柄的に仏教浄土宗です。

 

人が亡くなる瞬間、ほぼ脳が機能していないのだと父を看取って思いました。亡くなる数日前から寝ている時間が多くなり、何か夢を見るのかと訪ねたところ「何もない、ただ寝て気がついたら時間が過ぎてる」と言っていました。死をこの辺りで本人が自覚できる最後のチャンスなのではないでしょうか。その後は静かに寝たように息を引き取りました。近年では終末期でも医療麻薬の普及により痛みがかなり抑えられると聞きます。最初に亡くなった祖父はずっと痛がり苦しんでいるのを覚えています。父にはそれはなくなんとなく痛い程度といっていました。もしかしたら表には見えないところで苦しいことがあるのかもしれません。ただ多くの方の場合、臨終間際まで痛がることはないそうです。意識が朦朧としているためだそう。どんなに我々生きている人間が考えたところで想像にしか過ぎず、実際のところはなってみないとわからないですね。それは人生最後のお楽しみとしてとっておきましょう。死ぬ瞬間に全てを悟れたらいいですね。

人の死に立ち会うことで死生観が養われます。死の恐怖というのは人間の想像や妄想によって怖さが増している面があります。身内の死に目に合うと怖さが軽減するかもしれません。私はそうでした。今まで何人もの親しい愛しい人の死を見てきました。怖さがないわけではありません。死後が無とするならばその人とは二度と会うことも話すこともできないからです。その恐怖を和らげるために宗教の教えが存在し、心に救いをもたらすものだと考えます。

 

宗教は必ず死についての教えが存在します。

私が考える理由は

・絶対回避不能の恐怖を少しでも和らげるため

・死という最大の恐怖を利用した人々の抑制

 

人は想像、妄想ができる生き物です。その想像と妄想が一人歩きをし、未知のものに対して恐怖を生み出すと考えます。これら宗教の死後で共通している部分があります。

それは生前の行いが死後の世界の質に影響を及ぼすというもの。

なぜそのような考えが生まれたのか。

宗教が誕生した時代では法律というものがあったのかもしれませんが今ほどガチガチなものではありませんでした。殺人、不倫、レイプ、窃盗などなど抑制するものがそこまでなかったのでは?と思います。なので宗教を用いて人間最大の悩みであり恐怖である死を使って人々を人道的なものにしていったのではないかと思います。いわば法律の原点のような存在です。それぞれで若干の違いがある(例えば一夫多妻制など)のはその地域柄によるもの。

もともと人間も野生ですから今では考えられないことをたくさんしていたに違いありません。動物を見てみれば共食いもしますし縄張り争いで同種を殺めることもあるでしょう。また弱肉強食の理念がはっきりとしています。人間社会でも存在しますが自然界ほどのものではありません。社会で弱いからといって命まで取られることは少ないからです。もし人間が縛られずに暮らしていたならば今のような文明は生まれなかったでしょう。どういうわけか少なからず人間は束縛されていることに安心感を覚えます。安定した生活、というのも縛りのうちになります。新しいことには当然不安を感じるでしょう。それはそこでの束縛がわからないことも要因ではないでしょうか。生きている以上、絶対に訪れる死という束縛が存在しているのも事実。ただ普段はそこまで意識していないと思います。死に対して考えるとき、病気になったり、事故にあったり、自殺したくなったり色々あると思います。

病気の場合、死を意識するのは死にたくないから。

事故も同様。自殺したくなるのは現実に嫌気がさし全てを無にしたいと考えるから。これらもほんの一部の思考だと思います。死について考えると何があるのか。死ぬとは何か、怖いものとしてではなく、自然の摂理として考えて見てはいかがでしょう。何かしらの変化が起きるかもしれません。

 

少し長くなりましたので続きはまた今度。